皆さん、こんにちは。本日から歴史総合の解説を少しずつスタートしていきたいと思っています。(使用教材:山川出版社『近代から現代へ』)
早速今日は第1章の『アジア諸地域の繁栄と日本』の第1弾の話をしていこうと思います。
それでは早速、今日の結論から話します!
【結論】
16世紀のアジアはイスラーム国家が繁栄と滅亡を繰り返していった時代
それでは詳しくみていきましょう!
オスマン帝国
最初に学んでいくのはオスマン帝国となります。
まず、皆さんはオスマン帝国とはどのような国であったか、イメージできるでしょうか?
オスマン帝国の特徴やそもそもオスマン帝国はどの場所にあった国なのか。
その辺りをしっかりと解説していきたいと思います。
オスマン帝国の場所
以下の地図をご覧ください。(詳しい地図は教科書で確認!)
オスマン帝国の場所は現在のトルコ周辺にあたります。
この地域の特徴はなんと言ってもヨーロッパとアジアの中継点であるという点にあるでしょう。
立地的にヨーロッパと関わりが出て来てしまうのは当然ですよね。
それではオスマン帝国の特徴についてまとめていきましょう!
オスマン帝国の特徴
①領土の拡大に努める
オスマン帝国が領土を拡大しようとする最大の理由は税収の増加です。
当時、オスマン帝国は『ジズヤ』と言う人頭税を国民から徴収していました。
※人頭税…国民一人一人(頭数)から徴収する税のこと
この『ジズヤ』とはイスラム教徒ではない人から徴収する税のことです。
《 POINT イスラーム教徒のことを『ムスリム』という 》
先ほどの話でも少し触れましたが、オスマン帝国はヨーロッパと非常に近い場所の位置しています。ヨーロッパの多くがキリスト教を信仰しているのはなんとなくイメージできますよね?
つまりイスラム教徒ではないヨーロッパの国を攻めたらその分、異教徒(ここではキリスト教徒)からジズヤを徴収することができるということなのです。
しかしこの領土拡大も少しやり過ぎていたのかもしれません。
当時の皇帝であったスレイマン1世はモハーチの戦いに勝利し、ハンガリーを征服しました。
そしてスレイマン1世は1683年、立て続けに神聖ローマ帝国ハプスブルク家の拠点であったウィーンを攻撃し、領土をさらに拡大しようとしたのです。
これがウィーン包囲という戦いになります。
※神聖ローマ帝国…外敵を撃退した功績を讃えられ、ローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられ建国した(現在のドイツやオーストリアあたり)
※ハプスブルク家…神聖ローマ帝国の皇帝位を独占していた王家
この戦いは武器の輸送が上手くいかなかったり、戦いが長引いたことで寒い冬が到来するといった季節的な問題などの理由からスレイマン1世はウィーンから撤退することとなった。
この中途半端な対応がのちに響き、最終的に征服したはずのハンガリーも17世紀には大半を失うこととなりました。
領土拡大を欲張りすぎた結果、自分の首を絞めることとなったのです。
これは一つの教訓かもしれないですね。
②キリスト教徒とイスラム教徒の共存
キリスト教徒からジズヤという税をとっておきながら何を言ってるんだと思う方もたくさんいると思います。
しかし何事もアメとムチが大事なのです。
『ジズヤを支払う』というムチを打つ代わりに、キリスト教徒に自治を与えたり、フランス人には領内での居住や通商の自由を与える(カピチュレーション)などのアメを与えていたのです。
まぁ自治を認めながらも基本的にはイスラーム世界のルールに基づいて生活をさせていましたので、ある程度アメは与えるが、締めるところは締めるというやり方をとっていたんだと思います。なかなかオスマン帝国も賢いですね。
Point オスマン帝国はイスラーム法に基づいて政治を行なっていた
※イスラーム法(シャリーア):イスラム教の聖典である『コーラン』とメッカの商人出会ったムハンマドの言行(スンナ)に基づいて作られた法律のこと
③商業の発展
そしてオスマン帝国の特徴はなんと言っても商業の発展でしょう!
オスマン帝国にははっきりとした転換期がありました。
それがメフメト2世によるコンスタンティノープル占領です。
このコンスタンティノープルという場所がオスマン帝国にとって本当に重要な場所となります。それでは地図で確認してみましょう!
コンスタンティノープルの何が重要なのか皆さん理解出来たでしょうか?
コンスタンティノープルはアジアとヨーロッパをつなぐ商業都市であることが立地からわかってもらえるかと思います。
この場所を押さえることでよりヨーロッパへの商業ルートが確立したということです。
このコンスタンティノープルを抑えたことで商業ルートだけでなく、領土拡大へのルートも開かれてしまいました。
その結果が先ほど書いたウィーン包囲です。
コンスタンティノープルの占領はオスマン帝国にとって良くも悪くも大きな影響を及ぼしたということを意識しましょう!
サファヴィー朝
次に説明するのはイラン世界の様子です。
それでは早速いきましょう!
サファヴィー朝の場所
サファヴィー朝の場所を以下の地図で確認してみよう!
サファヴィー朝の特徴
サファヴィー朝の特徴を以下にまとめました。
確認してみてください!
①建国者…イスマーイール1世
②王号…シャー(イランの伝統的王号/日本でいうところの天皇)
③都…イスファハーン → 『世界の半分』と言われるくらい繁栄していた?
④宗教…イスラム教(シーア派)の国教化
☆シーア派って何? イスラム教はウマイヤ朝時代からスンナ派とシーア派という2つの宗派に分裂しました。この分裂は以下の様にして起きました。 ①ムハンマドは唯一神アッラーの言葉を受けた預言者としてイスラム教を開く ②ムハンマドの後継者(カリフ)を選挙によって決める ③その後継者のうちに1人にアリーという人物がいた ④当時アリーを支持した人々を『シーア・アリー』と読んだ(シーア派)
まとめるとこうです。
- スンナ派…ムハンマドの言行に基づいたイスラム教(多数派)
- シーア派…アリーの言行に基づいたイスラム教(少数派)
サファヴィー朝はシーア派の国教化によって団結心を育み、強い国家を目指そうとしたんだね。
サファヴィー朝は先ほど解説したオスマン帝国とも抗争がありました。
しかし、周囲の国に負けない強い国家を目指したサファヴィー朝も政治問題を通じて衰退していき、1722年にアフガン人(スンナ派)の信仰を受けて壊滅してしまいました。
1736年にはこの地でナーディル=シャーがアフシャール朝を建国し、1776年にはカージャール朝が建国されたよ
16世紀以降のイランでは様々な国が繁栄と衰退を繰り返しているというイメージを持っておきましょう!
ムガル帝国
16世紀にインドで成立したムガル帝国ですが、『ムガル』ってどういう意味か、皆さん知っていますか?
『ムガル』とはインドでモンゴルを意味する言葉です。
モンゴル系のバーブルという人物により、このムガル帝国は建国されたため、このようなネーミングになったのだと思います。
それではこのムガル帝国のポイントを見ていきましょう。
ムガル帝国の場所
ムガル帝国の場所を地図で確認してみよう!
ムガル帝国の特徴
このムガル帝国を語る上で外せないポイントは宗教です!
インドという地は今でもヒンドゥー教が盛んな場所として有名ですが、当時のインドもヒンドゥー教が主宗教として存在していました。
そんななか、ムガル帝国というイスラーム国家がインドの地で誕生します。
この国の宗教対策は紆余曲折ありました。
まず第3代皇帝に就任したアクバルの時代から見ていきましょう!
皇帝アクバルの時代
アクバルはヒンドゥー教に寛容な政策を行いました。
その典型とも言えるのが人頭税(ジズヤ)の廃止でしょう!
先ほどのオスマン帝国の時にも出てきましたが、ジズヤとは非イスラム教徒が支払わなければならない税のことを言います。
つまり、ジズヤを徴収しないという政策はヒンドゥー教徒の多いインドの人たちにとって非常にありがたい措置だったのです。
こういった寛大な対応により、アクバルはムガル帝国の結束力を強めようとしました。
しかし、こんなことも言っていられない状況になってしまいました。
次はシャー=ジャハーンという皇帝の時代の話をしていきましょう。
皇帝シャー=ジャハーンの時代
このシャー=ジャハーンという人物にはムムターズ=マハルという最愛の妻がいました。しかし、この最愛の妻派36歳という若さで亡くなってしまいました。
最愛の妻の死を嘆き悲しんだシャー=ジャハーンはこのあと、とんでもない行動に出ました!
なんと亡くなった奥さんを偲ぶために超巨大で豪華なお墓を作ったのです。
そんな豪華なお墓は現在、世界遺産に認定されています。
この建造物こそがタージ=マハルです。
そしてこの超豪華で巨大なお墓を作った結果、国の経済が傾いてしまいました。(どんだけ〜って感じですよね。笑)
そしてこの大赤字のタージ=マハル造営によって国の政策までもが一気に変わることになるのです。
皇帝アウラングゼーブの時代
先ほどのシャー=ジャハーンのせいで財政難に陥ってしまったムガル帝国でしたが、新しい皇帝アウラングゼーブにより新しい政策が進められました。
それが
『人頭税(ジズヤ)の復活』です!
財政難に陥った今、ムガル帝国でできることはたくさんの税を獲得し、一刻も早く、経済を立て直すことでした。
よってこのアウラングゼーブの時代は積極的に対外戦争を行なっていきます。
戦争をする → 領土・領民を増やす → たくさんの人頭税(ジズヤ)を回収 という流れが完成します。
これらの一連の動きにより、当時のムガル帝国は最大領域を支配することになりました。
しかし当然ながら、非ムスリムからは大きな不満を抱かせることになります。
この不満が募りに募って、非ムスリムであるヒンドゥー教徒はアウラングゼーブの死後、頻繁に反乱を起こすようになりました。
以上が当時のアジア大陸各地で起きた激動の歴史です。
それでは本編の最後に当時の東南アジアの様子だけ確認して今日の講義を終えたいと思います。
16世紀以降の東南アジア
16世紀の東南アジアはヨーロッパに好き放題されていました。
ポルトガルやスペイン、オランダ、イギリスなど様々な国が東南アジアに進出し、アジア圏内の貿易の中継地点として栄えました。
この中でも特に繁栄した東南アジアの国はタイのアユタヤ王朝でした。
このアユタヤ王朝は国際貿易からの利益により豊かになった国であり、このような国家を港市国家と言います。
Point 港市国家とは貿易が盛んな港を中心に建設された国家のこと
それでは東南アジアとの貿易で大活躍した会社を勉強していこう!
この時活躍したのが東インド会社です。
Point 東インド会社とはアジアとの貿易独占権を与えられた企業のこと
当時、重商主義(経済活動をどんどん進めていこう)という考え方がヨーロッパにはありました。
この風潮を受けて、オランダで世界最古の株式会社が誕生しました。
その会社こそがオランダ東インド会社です。
当時オランダはスペインと抗争を続けており、スペインから貿易制限をかけられて、香辛料が手に入りづらい状況でした。またイギリスやポルトガルとも抗争が続き、オランダは貿易を通じて経済活動を活発化させようとしたのです。
オランダはこの状況を打破するために新たな香辛料獲得ルートを開拓していきます。
そこで活躍したのがオランダ東インド会社。
この会社の奮闘によってマルク(モルッカ)諸島の香辛料をゲットすることができ、オランダは東インド会社のおかげで着々と力をつけていったのです。
その後、オランダは当時争っていたイギリス勢力を東南アジアから追い払うことに成功(アンボイナ事件)し、日本をはじめとするアジアで拠点を広げることができました。(江戸時代、日本が鎖国していた時もオランダはヨーロッパで唯一日本に渡航しても良い国でした。)
またオランダと抗争を続けていたスペインも東南アジアに進出していきます。
スペインはフィリピンを占領し、ルソン島にマニラという都市を建設しました。
スペインはラテンアメリカ(当時スペイン領)から銀をマニラ(中継地点)に運び、そこから中国へ売るという経路で貿易を進めていった。
本日のまとめ
- ヨーロッパに近い場所にあるオスマン帝国(イスラム国家)は領土拡大に努めたが、やりすぎたためかえって領土が縮小
- サファヴィー朝はイスラーム教の中でも少数派のシーア派を国教とすることで団結心を育もうとした
- ヒンドゥー教が盛んなインドでオスラーム国家として誕生したのがムガル帝国
- 東南アジアは西欧国家の勢力争いが行われていた地域だった
自己紹介 好奇心旺盛な社会科教師
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