みなさんこんにちは。本日は歴史総合第2弾の解説を行っていきたいと思います。
まずは前回のおさらいからいきましょう!(勉強は復習が大事です!)
下に小テストと前回の記事を載せましたので確認しながら取り組んでみてください!
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前回のおさらいが済んだら、早速本編に入っていこうかと思います。
それでは今日も結論から参りましょう!
【結論】
漢民族が建国した明王朝と満州族が建国した清王朝は同じ中国でも全くの別物国家である
それでは詳細について解説していきましょう!
明の発展と衰退
まず中国という広大な地に明という国家が成立しました。
どのようにして明という国家が誕生したのでしょうか???
明の成立から話を進めていきましょう!
元の滅亡と明の成立
まず明という国が成立するまでは中国にはモンゴル民族が王位につく『元』という国家が存在しました。
日本にも2度来襲した(鎌倉時代の蒙古襲来)『元』という国家ですが、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス=ハンの子孫であるフビライやバトゥといった人物らが西にも東にも勢力を拡大していきました。
歴史上8番目に大きい領土を持つ国家だったみたいだよ!
しかし、この元という国もインフレが続いたことにより、財政が悪化し、国内の不満がたまっていきました。そこでとうとう国内紛争が起きてしまったのです。
この戦いが紅巾の乱です。
『紅巾』は当時、元の政府に対抗した反乱軍が目印として赤い(紅色)の巾着を身につけていたからだと言われています。
この戦いにより、元の支配力はガクッと落ちてしまい、中国の地に新しく『明』という国家が誕生することになるのです。
この『明』という国を成立まで導いたのが先ほど説明した紅巾の乱で頭角を表した朱元璋という人物でした。
朱元璋はモンゴル民族の国となっていた元を北へ追いやり(北元)、漢人による国家を復活させたのです。
漢人とは??
400年続いた漢王朝の影響を大きく受けた中国の地に古来から存在する民族のこと
明王朝の特徴
上に書いた経緯があり、中国の地に漢人による王朝が帰ってきました。
それではこの王朝の特徴を見ていきましょう!
①海禁政策をとっている国
みなさん海禁政策とは何かご存知でしょうか?
一番みなさんがしっくりくる名称はおそらく鎖国(自由貿易禁止)です。
日本が行っていた鎖国と同じようなことを当時の明も行っていたのです。
注意点として海禁政策というものは(民間が)自由に海外の国と接するのがダメなのであって、全く周辺諸国と関わりがなかったわけではありません。(日本の鎖国も同様です。)
当時、明という王朝は朝貢形式により周辺諸国と交易をしていました。
朝貢貿易とは??
古くから中国王朝で採られてきた周辺国の首長(リーダー)が世界の中核を担う国(中国)に使節を送り、貢物を持っていく(ゴマすり)制度
この貢物の見返りとして中国王朝は首長がその国を支配する権限(あなたがこの国の正統なリーダーだ!)を承認する(=中国のお墨付き)
これは古くから中国が世界でNo.1であるという思想(=中華思想)のもと、行われてきた制度であり、この明王朝が古くから中国を支配してきた漢人による王朝であることからこのような政策が採られているということを再確認しておきましょう!
漢人による王朝だから中華思想に基づく朝貢貿易が行われた
この朝貢形式の貿易のもと、琉球王国(今の沖縄)や朝鮮王朝、当時日本に成立していた室町幕府と密接な関係を持っていたことも頭に入れておきましょう!
②鄭和による対外政策の発展
先ほど話をした朝貢貿易を促進させるため、明王朝は当時ムスリム(イスラム教徒)の宦官であった鄭和という人物に遠征を命じました。
※宦官…去勢した男性で皇帝の身の回りの世話をする官吏(国の役人)
要は明王朝に朝貢してくれる国を募集しに海外進出をしていったのです!
ここで一つ疑問が生じます。
明王朝って鎖国しているんじゃないの??
海禁政策をしているのにそんなにバンバン海外進出していいの??
というシンプルな疑問です。しかし一応これはセーフなんです。
なぜなら先ほども説明しましたが海禁政策というのは基本的に民間(個人)が自由貿易を禁止することを指しますので、政府主導で海外進出をする分には海禁政策中でも一応OKなのです。
しかし、この状況を見て民間の人(特に商人)たちはこう思うはずです。
政府ばっかり貿易で利益を得ているのはずるい!俺たちも貿易で利益を上げたい!
世界的にも当時は大航海時代。
海外に出て利益を獲得しようと思う商人たちの発想は当然のことだったと思います。
そこで動き出したのが明王朝が頭を抱える存在となった『倭寇』です!
では次の項目で倭寇についてふれていきます!
③倭寇に苦しんだ明王朝
まずそもそも倭寇とはどのような集団なのかについて簡単に説明しておきます。
倭寇 → 東南海岸で略奪行為を働いていた海賊集団
倭寇は明の海禁政策に逆らい、密貿易をするだけでなく、略奪行為も行っていたため、明王朝の反抗する海賊として注目される存在となっていきました。
ちなみにこの倭寇は中国人だけでなく、日本人も多く在籍していたとされています。
この倭寇による侵略行為に明王朝は長年悩まされることとなり、16世紀半ばには海禁政策が緩和されるまでに至りました。
しかし海禁政策が緩和された後も中国の商人は日本と直接貿易をすることは認められないという状況が続きました。(倭寇は日本人と中国人による海賊集団であり、お互いを結びつけるようなことは明王朝としては避けたかったからでしょう。)
そこで目をつけたのがポルトガルという国でした。ポルトガルについて少し触れておきましょう。
少し話がそれました。本題に戻しましょう。
この倭寇の存在は明王朝をずっと苦しめていましたが明が頭を抱えていた問題はもう一つありました。
それが中国の北にある、モンゴルの動きです。
モンゴルは明の勢力拡大の影響を受け、どんどん北の方へ追いやられていました。
そこでモンゴルがとうとう動き出します。
なんとなんと当時皇帝だった明の皇帝がモンゴルのエセン=ハンという人物によって捕虜にされてしまったのです。
この事件を土木の変と言います。(明の皇帝が捕まった場所が土木堡という場所であったためこの名称となっています。北京から約100km北に向かったところみたいです。)
このように『北』ではモンゴルにより明の皇帝が捕『虜』となり、『南』では『倭』寇に苦しむという状況となっていました。この状況を『北虜南倭』というので覚えておきましょう。
こうした状況から外交も対外積極政策(領土をどんどん拡大しよう)から守勢(北のモンゴルや南の倭寇から国を守る)に切り替わっていきました。
この変化に伴い、国内でも軍事費がどんどん増加され、税制も大きく変化していきます → 張居正による一条鞭法
※一条鞭法…当時中国で銀の流通が広まっていたため、各種税を銀の一本化して納入させる税制度へ切り替えた
この税改革により、農民は混乱し、当時発生した飢饉なども相まって反乱(李自成の乱)が発生し、明という国家は一気に衰退してしまいました。
明という国の移り変わりは理解できたでしょうか???
それでは次に明王朝の後に中国の地で誕生した『清王朝』の詳細を確認していきましょう!
清の発展と衰退
それではさっそく清王朝の誕生について確認していきましょう!
明王朝の衰退と清王朝の成立
さて先ほど明王朝は久々の漢民族による王朝だと説明をしました。
この明王朝も様々な外敵と接しながら徐々に衰退をしていくことになりました。
この状況で動きを見せたのが女真族(後に満州族と改名)と呼ばれる民族でした。
このラーメンマンヘアー(辮髪)が特徴的な民族が女真族(満州族)です。そしてこの民族が中国が混乱する中、覇権を握ることとなっていくのです。
以下に清王朝建国までの流れをまとめました。
①ヌルハチという人物が女真族(満州族)を統一し後金が建国
※後金…かつて存在した『金』という国と区別するため『後金』とした
②後金は八旗制を開始し、軍隊強化に努めた
※八旗制…満州族の血縁・地縁集団を再編成/色の違う8つの軍事組織
運動会で青組とか黄色組とかにチーム分けされていたのを思い出してください!
③明が李自成の乱の影響で弱体化した中、後金ではホンタイジが2代目の皇帝に就任
※ホンタイジ…ヌルハチの子
④2代目皇帝のホンタイジは国号を中国風の『清』に変更し、その勢いのまま中国全土を占領することとなった(=清王朝の誕生)
以上の流れで明王朝は滅亡し、清王朝が中国の地で新たに誕生することとなったのです。
それでは次の項目で清王朝とはどのような王朝だったのかをまとめていきたいと思います。
清王朝の特徴
清王朝は漢人中心の明王朝と異なり、異民族(満州族)によって成立した国家です。
清王朝は漢人を従わせなかればならない異民族の国家
それでは清王朝の特徴を見ていきましょう。
①国内外のおける紛争
清王朝の前半は康熙帝 → 雍正帝 → 乾隆帝と3代にわたり、優秀な皇帝が即位し、清王朝の前半は反清運動の鎮圧と領土拡大を行っていきました。
まず反清運動ですが、当時清王朝をよく思っていなかった人物たちが抵抗を続けていました。
その代表例が鄭成功という人物です。
この人物は明時代に軍事担当をしていた漢人を父にもち、日本人を母にもつ珍しい経歴を持った人物でした。
鄭成功は現在の台湾を占領し、ここを拠点として、反清復明運動を開始していました。
この清王朝に反抗する鄭成功を清王朝は許しません。
清王朝の台湾の鎮圧にかかり、最終的に鄭成功は清王朝に降伏し、台湾もそのまま清王朝の領土となってしまったのです。
清王朝の国内征服はさらに加速していきます。
清王朝の建国を助けた3人の藩王たちも勢力拡大を防止する目的で、攻撃を仕掛けていきました。
※これを三藩の乱と言います
このように清建国直後は清に反抗する勢力や清にとって脅威となりうる存在を片っぱしから排除していくという動きに出たのです。
このような国内での抗争と同時に清王朝は中国の外にも目を向けていました。
乾隆帝の時代にはジュンガル(当時チベットに侵入していたモンゴル人オイラト系の部族)を滅ぼして東トルキスタン全域を支配するようになります。
※この時、支配した地域を『新疆』(新しい領土という意味)と呼ぶ様になりました。
また清王朝は当時南進してきたロシアとも衝突し、たびたび国境の策定を行っていました。
このように清王朝は建国直後から国内での紛争と国外での紛争を同時に処理しなければならない状況だったことを頭に入れておきましょう。
②アメとムチの政策
清王朝は先ほども書いた通り、満州族によって建国された王朝です。
中国に数多くいる漢人やモンゴル人とどのように折り合いをつけて国の運営をしていったのかを簡潔に説明していきたいなと思います。
まず政治への介入についてですが、清王朝は満州族だけで政治を行うのではなく、漢人やモンゴル人にも政権に参加させ、幅広い意見を汲み取る姿勢を見せていました。
やはり中国は漢人が多くを占めているだけあって、漢人が不満に思うことがたくさんあると国の運営がしづらくなるというデメリットを清王朝はしっかりと理解していたのだと思います。
また従来あった科挙という試験を元に登用される官僚制度も清王朝では継続され、漢人が窮屈に感じない方針をどんどん打ち立てていきました。
しかしそんな中、一つだけ漢人にも満州族の文化を強いたものがあります。
それが先ほども少し登場した『辮髪』の文化です。政治の運営方法や方針など目には見えない部分は今まで通りでしたが、目に見える風習や文化は統一したいという思いが清王朝の中にあったのかもしれません。
このように清王朝は漢人に対して懐柔するところは多々ありますが、言論や風習など強制するべきところもきっちりとあり、『アメとムチ』をしっかりと区別している王朝であるということがわかります。
③清王朝の外交
最後に清王朝の外交について少し触れていきたいと思います。
先代の明王朝は海禁政策を行い、海外との交流を制限していました。
それに比べて清王朝の外交は自由なものでした。
中国の商人が海外貿易を行うことも多々ありました。特に中国の茶は海外でも人気で、ヨーロッパとの貿易でかなりの利益を上げ、国内商業が発展していきました。
しかしなんでも自由にしてしまうと収拾がつかなくなってしまうため、清王朝はヨーロッパ船の来航を広州に限定しましたが、貿易額は落ちるどころか、どんどん増大していきました。
もちろん貿易によって中国が外国のものを取り入れていった側面もあります。
その代表格がアメリカ大陸から伝わったとされるトウモロコシやサツマイモです。
これらの作物は山地でも栽培が可能な作物となっていて、当時人口が増加し、食料不足に陥りかけていた中国にとって重要な食料源にもなっていったのです。(ちなみに日本の江戸時代でもサツマイモの栽培が飢饉を救ったというエピソードがあります。)
しかしこのトウモロコシやサツマイモを山間部で栽培するためには山地を開墾しなければいけません。
これらの栽培の促進は同時に環境破壊と自然災害を生んでしまいました。
(例)山間部を開墾する → 森林を伐採する → 今まで増水した時に抑えてくれる役割を持っていた森林がなくなると洪水や土砂崩れ(自然災害)が頻繁に起こるようになる
食料増加というメリットがある一方でこのようなデメリットが生じ、次第に国民の中にも批判的な声が相次ぐようになってしまいます。
こういった社会不満も重なり、18世紀末に四川を中心とする山間部で白蓮教徒の乱が発生してしまうこととなります。この反乱により、清の財政は圧迫され、弱体化してしまうのです。
当時の日本の様子
中国のことをかな〜り語りましたので、最後にこの時代の日本の状況をざっくり整理して本日の講義を終了したいと思います。
16世紀以降は大航海時代。
中国だけではなく様々な国が西欧の国と接し、大きく変化をしていった時代となります。
日本も周囲の国と同様、大きな変化を遂げていきました。
この時、日本は足利将軍が支配する室町時代から群雄割拠の戦国時代へと変化していきました。
この大きな変化の中で台頭してきたのが織田信長です。
織田信長は先例にとらわれない様々な改革(キリスト教の許可や楽市楽座など)を行い、全国統一を目指していました。
皆さんもご存知の通り、全国統一間近で家臣の明智光秀に裏切られてしまい(本能寺の変)、目標達成とはいきませんでしたが当時の日本に大きな変革を与えたのはいうまでもありません。
そしてこの織田信長に代わって全国統一を成し遂げたのはかの有名な豊臣秀吉です。
秀吉は全国統一を成し遂げたのち、海外にも目を向けるようになりました。
これが朝鮮侵略(文禄・慶長の役)です。
結局、この朝鮮侵略も中途半端に終わり、豊臣政権から徳川政権に代わっていく一因となってしまいました。
この後に徳川政権の元、江戸幕府が開かれることになりますが、その話は次回していきたいと思います。
今日の授業は以上となります。最後にまとめと確認プリントの配信を行うのでぜひ皆さんも取り組んでみてくださいね。
本日のまとめ
・漢民族が建国した明王朝は古くからの伝統に従い、海禁政策をしつつも朝貢貿易を行なっていったが倭寇や外敵との対立から勢力を弱めていった。
・満州族が建国した清王朝は中国で大多数を占める漢民族と協調を図ったが、辮髪の強制など締めるところは締めるアメとムチの政策を行なった。
・当時の日本は戦国時代真っ盛りで『国内統一 → 国外進出』という動きを見せたが国外進出は失敗に終わった。
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自己紹介 好奇心旺盛な社会科教師