皆様お久しぶりです。はじめましての皆さんこんにちは。私、ジョージ先生(@GeorgeSAteacher)と申します。
※私はTwitter・Instagram・note・Kindle本で情報発信をしている高校教師です。
本日は歴史総合第3弾の解説を行っていきたいと思います。
まずは前回のおさらいからいきましょう!(勉強は復習が大事です!)
下に前回の記事を載せましたので確認してみてください!
前回のおさらいが済んだら、早速本編に入っていこうかと思います。
それでは今日も結論から参りましょう!
江戸時代は藩に自由を与え、権力を与えない仕組みを作った
それでは詳細について解説していきましょう!
江戸幕府の成立と諸制度
初めに江戸幕府の成立から話を進めていきましょう。
日本では鎌倉時代から武士の時代となり、室町時代を経て戦国時代へと武士の世は突入していくことになりました。
その中で台頭してきた人物が織田信長であり、豊臣秀吉であり、今回の主役でもある徳川家康だったのです。
私の中にある3人の勝手なイメージはこうです。
・織田信長…戦国時代を突き抜けた圧倒的なカリスマ
・豊臣秀吉…戦国の世を統一した実力者
・徳川家康…世襲制による磐石の体制を整えた権力者
まぁこの辺は今回のテーマではないのでひとまず置いておきましょう。
本日取り上げるのは3人目の『徳川家康』です。
江戸幕府の成立
それでは徳川家康がどのようにして権力を手にし、江戸幕府を成立させていったのか、簡単におさらいしようと思います。
①当時は五大老と五奉行という二つの派閥がありました。
※五大老…チームベテラン達(筆頭が徳川家康)
※五奉行…チーム若手達(筆頭が石田三成)
徳川『経験豊富な我々がリーダーシップをとっていく』
石田『これからは若手が引っ張っていく時代だ』
②秀吉の死後、次の支配者をめぐって争いが起きます。(関ヶ原の戦い)
※関ヶ原の戦い…五大老の徳川家康VS五奉行の石田三成
接戦が予想されたが、西軍の小早川秀秋の裏切りにより家康率いる東軍が勝利!
このような流れで徳川家康が頭角を表し、1603年に江戸幕府が開かれることとなりました。
それでは次に江戸幕府の仕組みについて簡単にまとめていこうと思います。
江戸幕府の諸制度
まず江戸時代の支配体制を表す『幕藩体制』という語句について説明をしたいと思います。
幕藩体制とは何か、以下の図を見てください。
江戸時代のことなので少し分かりづらいかもしれません。
それでは身近なものでこれを例えてみましょう!
どうでしょうか?これならなんとなくピンとくるのではないかと思います。
しかしここで一つ問題があります。このような地方分権スタイル(地域ごとである程度、自立してもらう制度)では力(武力・経済力)を持ちすぎてしまう地域(藩)が出てくる可能性があるのです。
室町時代も地方分権制度を採用したことで結局は将軍家よりも力を持ってしまう大名が出てきてしまいましたね。
つまり地方分権は『各地域である程度自立をして欲しいが、自立をしたことにより力(武力・経済力)を持ちすぎるのはあまり良くない』制度だと言うことができます。
この心配事をなくすために作った制度がかの有名な『参勤交代』でした。
参勤交代の制度を以下にまとめました。
このような制度のもと、江戸幕府は各藩を上手に支配していました。
江戸時代の経済
次は江戸時代の経済について少し、触れておきましょう。
それでは今から国内の流通と国外との貿易の2つの観点で解説をしていきます!
国内の流通
まずはこちらの図を確認してください!
この図を解説していきたいと思います。
※下の①〜⑩の流れは上の図の①〜⑩とリンクしています
①百姓(農民)は米を年貢(税)として納めます。
②当時は村ごとに税を集める制度(村請制)でした。
③村ごとで集めた年貢が大名(藩の支配者)のところに集まっていきます。(大名は米よりもお金が欲しいので年貢として集めた米を貨幣に換金したい。)
④大阪や江戸などの都市圏に行き、各藩が所有している蔵屋敷(倉庫)へ年貢(米)を持っていき、そこで換金する
※蔵元…年貢を受け取り、モノの管理する人
※掛屋…年貢を換金し、お金を管理する人
⑤大名は貨幣をゲット!(参勤交代の時の費用に充てたりする)
⑥蔵屋敷に持ち込まれた年貢(米)は問屋へ運ばれ、商品用として売りに出される
※納屋物…年貢としてではなく、商品として売りに出されるモノのこと
⑦問屋は年貢米の対価として蔵屋敷へお金を渡す(このお金は掛屋が管理する)
⑧問屋は小売へ商品(納屋物)を流す(『仲買』を仲介するケースもある)
⑨小売は問屋から商品を仕入れる(対価としてお金を払う)
⑩問屋(もしくは仲買)から仕入れた商品を小売が売る(国民が買う)
こういった流れでモノとお金が流れていったわけです。
国外との貿易
それでは次に国外との貿易を見ていきましょう。
まず江戸時代は『鎖国』をしていたイメージがあると思います。
鎖国をしていたから国外と貿易なんてできないんじゃないの?と思う方もいるとは思いますが、『鎖国=貿易禁止』ではないのです。
鎖国について簡単に定義しておきましょう。
鎖国とは幕府が外国との交流を管理する形態のこと
つまり江戸幕府は外国との交易を完全に禁止したのではなく、いろいろな人が外国人と自由に交流を持つことを禁止したのです。
そのため江戸時代では限られた国と幕府主導による貿易が行われていました。このことをよく表した語句が『4つの窓口』です。
『4つの窓口』とは江戸幕府が公認していた外国との4つの交流地のことを指します。
江戸時代の琉球と蝦夷ヶ島
先程、4つの窓口の図にも出てきていた琉球王国と蝦夷ヶ島について説明を加えていきたいと思います。
薩摩藩と琉球王国
琉球王国は一番分かりやすい言葉で言うと、今の沖縄です。
しかし、江戸時代の琉球王国は今の沖縄のような位置づけではなく、日本領でもない一つの独立国でした。
琉球王国は当時、中国の明王朝へ朝貢(中国へプレゼントを持っていくこと。簡単に言うとゴマスリ。)をおこなっていましたし、日中両国の影響を受けた国でしたが、このことが返って後々の日中の軋轢を産んでしまうことになります。
琉球王国は日本と中国のどっちの味方なの?状態になってしまっていたわけです。
そんな中、日本側に動きがありました。
1609年に幕府の許可を受けた薩摩藩の島津氏が琉球王国を攻撃し、琉球王国を薩摩藩の支配下としてしまったのです。
しかしこの琉球王国の支配は普通の支配とは異なりました。
その理由は琉球王国を完全に日本領に組みこまず、琉球王国として国を存続させたからです。
なぜ幕府は琉球王国を滅ぼさず、そのまま国を存続させたのか分かりますか?
もし琉球王国を完全に滅ぼしてしまえば、明が怒って日本に戦争を仕掛けてくるかもしれません。
日本としてもそのような状況は避けたいので、琉球王国は存続させた上で、支配下に置くというある意味中途半端な対応をとることになっていったのです。
実はこの時、中国では王朝が切り替わる大きな変化の真っ只中で、琉球王国に目を向けている暇もなかったので、今回の薩摩藩の動きは無事スルーされました。
そもそもなぜ薩摩藩は琉球王国を攻めたのか分かりますか?
当時、薩摩藩は相次ぐ戦争によって財政難を抱えていました。
薩摩藩の島津氏は関ヶ原の戦いでは西軍についており、当初は家康と対立する関係にあった
関ヶ原の戦いでの敗戦により財政難を抱えていたと言うわけです。
薩摩藩はこの財政難を打破するために琉球王国を攻めたのです。
当時、琉球王国は中継貿易という交易を行い、莫大な利益を上げていました。
※中継貿易…他国から輸入したものをさらに他の国へ輸出する貿易形式
(例)琉球王国は東南アジアの国から100グラム500円で香辛料を買い、それを日本で100グラム1000円で売る → 500円分の利益となる
このような経緯があり、薩摩藩は琉球王国を攻め、藩の支配下に置いたのです。
松前氏と蝦夷ヶ島
蝦夷ヶ島とは現在の北海道の地のことですが、この場所は当時、日本領ではなく、アイヌ民族が住む未開の地でした。
当時の蝦夷ヶ島は鹿や熊などの狩猟や鮭・鱒などの漁労を中心とする生活を送っていました。
そんな中、この蝦夷地と密接に交流する藩がありました。
それが当時渡島半島南部を支配していた松前藩(松前氏)でした。
1604年に松前氏は徳川家康から蝦夷ヶ島の支配権を保証され、そこから積極的にアイヌ人と交易を行うようになっていった。
松前藩と蝦夷ヶ島の交易の変化について確認していきましょう。
まず松前藩とアイヌの交易は商場知行制という方法でスタートすることとなります。
以下の図をご覧ください!
この制度は家臣にアイヌ人と交易をする商場(場所)を知行地(ご褒美としてもらえる土地)として譲渡する方法になります。
これによりアイヌ人と松前氏の家臣(武士)たちが直接交易をすることになりましたが、この時に大きな問題が生じました。
それは松前氏の家臣(武士)達は商売のことを全く理解していないという点でした。商売をする経験もないので、どのように利益を上げてよいか全く分かりません。(武士なので実力行使に出るものもいたかと思います。)
そこで家臣達自身が商売をするのではなく、商人を雇って代わりに商売をやってもらおうと計画します。場所請負制が誕生したきっかけです。
このように商人によってアイヌ人との交易を行うようになると利潤を求める商人らにアイヌ人達は不満を覚えるようになります。
これによりまたアイヌ人と松前藩が対立をするようになっていきました。
本日のまとめ
・諸藩には『自由』を認めるが、『権力』は与えない
・薩摩藩や松前藩は幕府の許可のもと、国外との交流・交易を図った
最後まで読んでいただきありがとうございました!
自己紹介 好奇心旺盛な社会科教師